
ヨーロッパでアルベルティ(1402〜72) らが産み出した数学的遠近法は,日本では江戸末期の一時期でしか制作されていません。蘭画と言われるその技法は一時期興り,すぐに消えてしまいます。しかも,その技法は平賀源内を中心とした限られた人々の間でのみ制作されています。
特に秋田藩主の佐竹曙山と小田野直武の描いた洋風画は秋田蘭画と呼ばれ,日本の文化史に燦然と輝いています。今回,私たちは秋田蘭画の足跡を求めて,秋田県角館町と横手市の県立近代美術館を訪ねてみました。
角館町は秋田藩佐竹宗家の分家である佐竹北家が治めた町です。小田野直武はもともと分家である佐竹北家に仕えた武士でした。北家当主は代々俳諧,短歌など文芸に優れ,当主佐竹義邦の子義躬も植物の絵を多く描いています。このように文芸に理解のある当主によって直武の画才は伸びていったと考えられる。その後,その才能を認められ,佐竹本家の佐竹曙山に仕えることになります。
安永2年に秋田藩の招聘によって,平賀源内が鉱山開発のために秋田に来たと言われています。その時の伝説として,角館の五井孫左衛門宅に宿をとったとき,源内が宿舎にあった屏風絵に興味を抱き,作者である小田野直武を呼んだと言われている。その時,源内が餅を上から見た図を描かせたところ,直武は○を2つ描いてそれらしく描いたが,源内は遠近法を用いて立体的に描いて,それに感動した直武がその場で弟子入りしたと言われる。
(現在は五井酒造という酒屋を営んでおり,エレキテルというモダンなお酒が売られていました。)
これは伝説にしても当時解体新書の翻訳を進めていた源内が腕の良い絵師を求めていたことは事実であり,曙山が源内に引き合わせたというのが本当であると思われます。そこで直武は曙山の命を受け,江戸で源内のもとで学ぶことになります。
安永3年(1774)8月に刊行された解体新書では直武が挿し絵を担当しています。



普段は見られない秋田蘭画が横手市にある県立近代美術館の特別展示「東北の洋風画」で一同に見られると言うことで我々は秋田県立近代美術館に向かいました。角館でも見られなかった数々の蘭画がそこには並んでいました。(嬉しかった!!)
そこで平成11年度重要文化財に指定を受けた「唐太宗」に使われている数学的遠近法を調べてみました。数学的遠近法を厳密に守っているなら地面の碁盤の目の線が消失点で一致しているはずです。
残念ながらポスターで調べた限りではこの絵においては消失点が完全に一致している訳ではないことが分かりました。
しかし直武が司馬江漢とともに数学的遠近法を学び,それを佐竹曙山が学んだらしいことは展示にあった,曙山の「佐竹曙山写生帖」から,うかがいしれました。
とても充実した展示で,我々は満足して帰路につきました。
藩主佐竹曙山は小田野直武を通して得た遠近法の知識を1778年に「画法綱領」「画図理解」にまとめています。これは日本最初の西洋画論と言われており,洋書を翻訳したものと考えられます。


佐竹家歴代藩主の眠る廟所。